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母音が伝える思い 〜笹公人『ハナモゲラ和歌の誘惑』

 

前回は、「現代短歌」で連載中の寺井龍哉の「歌論夜話」にヒントを得て、短歌の持つ二つの側面である、「意味(文学)」と「韻律(音楽)」について考えた。

 

今回は、もう少し短歌の韻律について掘り下げてみたい。貴重な示唆を与えてくれたのが、昨年刊行された笹公人『ハナモゲラ和歌の誘惑』(小学館)である。

 

ハナモゲラ和歌とは何か。例えば次のような作品が代表例として上げられている。

 

みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ 大橋巨泉

 

一九六九年に万年筆のコマーシャルで用いられた歌と言えば思い出す方もいるだろう。一見、意味不明の呪文のような言葉だが、笹は、岡井隆による解釈を踏まえ、この歌を次のように読み解いている。

 

「短い万年筆のキャップをとれば、すぐにちょびちょびとインクが濡れすぎるくらいに濡れて、すらすらと書き心地もよく手紙などぱっと書けてしまう」

 

「手紙」という解釈が出てくるのは、結句の「ふみふみ」が「文」を思い起こさせるからだ。なるほど、言われてみれば、このような解釈ができそうである。

 

しかし、この歌の「意味」は、私たちが普段触れている現代短歌に比べれば、遥かに希薄である。一首の前面に出ているのは「意味」ではなく、オノマトペ風の言葉や造語による「韻律」なのだ。

 

笹は、「意味」に偏重した現代短歌への問題意識から、「韻律」重視のハナモゲラ和歌に着目。そこからヒントを得て、短歌の韻律について本書で様々な考察を加えている。

 

中でも興味深かったのが、短歌の「母音」に着目した読みである。各母音が人の心に与える印象について、音声学の研究者で『姓名の相性』の著者である山根章弘による説が本書に紹介されている。

 

A(ア)明朗で開放的な印象を与える

I(イ)知的で鋭敏な印象を与える

U(ウ)内向的で閉鎖的な印象を与える

E(エ)強情で屈折的な印象を与える

O(オ)円満で協調的な印象を与える

 

この部分を読んで思い出したのは、萩原慎一郎の第一歌集『滑走路』である。

 

いろいろと書いてあるのだ 看護師のあなたの腕はメモ帳なのだ

 

非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ

 

「なのだ」「のだ」という結句が特徴的な歌集である。口語短歌に深い思い入れを持っていた萩原らしい文末表現だが、「なのだ」も「のだ」も、最後がA音で終るところに着目したい。先に引いた山根説によれば、A音は明朗で開放的な印象を与える。

 

例えば二首目の結句は、仮に「生きているなり」だとしたらかなり印象が変わり、よりヒリヒリとした感じになる。一方、原作の「生きているのだ」は、確かに、外に向かって開かれた印象がある。

 

労働という過酷な現実に向き合い、萩原は、決して内にこもることなく、明るく開かれたマインドで歌を詠んできた。そのことは、一首目の看護師のような、働く他者へ向けられた視線にも表れている。そうした萩原の思いを、結句のA音が静かに伝えているように感じられる。

 

萩原の早すぎる死が悔やまれてならない。

 

田村元(初出:「りとむ」2018.3)

 

 

 

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